真言宗豊山派 総本山長谷寺(奈良県)
熊野山観音院 浄光寺
新四国八十八カ所第三十番札所

浄光寺について

真言宗浄光寺は、熊野山観音院と号し、大同2年(807) の創立を伝える薬師堂を受け継いだ古刹です。その来歴は定かでありませんが、江戸時代の慶安元年(1648) 9月、薬師堂領の内高五石が寺領として浄光寺に与えられました。これには三代将軍家光の朱印による印鑑が押されています。御朱印寺と呼ばれて「葵」の紋を付けるのが許されていました。

明治30年8月東武鉄道が北千住より久喜まで開通し、大沢と大房の境目に武州大沢駅 (現北越谷駅)が開設され、桃や梅の花見客で賑わうようになりました。
北越谷周辺には、宮内庁埼玉鴨場や古梅園で賑わう浄光寺、あるいは大沢、大房、大林にかけての桃園や梅園など、観光地として訪れる人々は絶えませんでした。

昭和36年12月に当地域の区画整理事業の認可が下りました。この区画整理で一面の桃林・梅林はことごとく伐採され、住宅地や商店街に変貌することになりました。

浄光寺附近の梅林はしばらく手をつけられませんでしたが、やがて浄光寺境内だけに梅林の面影を偲ばせるようになりました。しかも、浄光寺境内、墓地の一部が道路拡幅工事のため移転となり、本堂裏の山林を伐採し墓地の移動がおこなわれました。

その後昭和50年(1975)三月、墓地の造成地から「開通元宝」「皇宋通宝」「永楽通宝」など48種の中国古銭が1828枚出土しました。この古銭は何のために埋蔵されたか不明ですが、本堂屋根修繕の時、屋根裏から刀・鎧・兜・槍などが発見されており、おそらく太田氏と北条氏の岩槻城をめぐる戦いや豊臣秀吉の小田原出陣と岩槻城落城など、戦乱のとき武器の購入のため埋蔵されたのか今のところ謎とされています。

都市化の影響は、平成2年(1990)薬師堂近辺にも及び薬師堂の薬師大仏や、五智堂の五智如来その他宝筐印塔などを浄光寺境内に移す一方、浄光寺本堂や客殿、梅照殿(斎場)、薬師堂や五智如来堂などを新たに建立し境内地を整備し、浄光観音坐像が造立されました。浄光寺境内は清楚な庭園で、高濱虚子の句碑「寒けれど あの一むれも 梅見客」が彩りをそえ訪れた人々の心を和やかな気分にしております。

薬師堂

「浄光寺が別当として管理に当たっていた、大房の薬師堂は大同2年(807) の創立を伝えておりました。この薬師堂領として慶安元年(1648) 高五石の寺領が浄光寺に寄進されました。
また、この薬師堂の堂舎は、日光東照宮造営のため日光街道を通った時、夕立のため雨乞いに立ち寄った飛騨の番匠左甚五郎が、一夜にして建立したという伝説を残しています。

薬師如来坐像・十二神将

木造薬師如来坐像は、直径2.5メートルの蓮華台に乗り足を組み合わせた、高さ3メートルに及ぶ巨大な坐像で、この台座の回りには日光・月光菩薩立像及び十二神将像等の木像が数多く、薬師如来坐像の胎内には、一枚の記録書が入れられていました。これには寛文2年(1662) 3月吉日、京五條大仏師田村式部法橋作、その添書として大正10年(1921)5月、仏師吉野由次郎修復と記されています。

五智如来堂

樹齢四百有余年の銀杏の大木があって、そこに享保3年(1718)から同5年(1720)にかけて奉納された、青銅製による五体の如来立像を納めた御堂があり、五智如来堂と称され人々の信仰を集めていました。

五智如来立像

五智如来とは、大日・薬師・阿弥陀・阿閦(あしゅく)・釈迦の、智恵を体得した五体の尊像で、安産や眼病に霊験あらたかな仏様として、薬師堂の薬師とともに参詣者は絶えませんでした。
この五智如来立像の製作者は、江戸の鋳物師太田駿河守正儀でありこの種の仏像は、その例が少なく貴重な鋳像物として、昭和61年2月26日に越谷市の文化財として指定されました。